LOGIN土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。
まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。
今日は工房へ行く日。
そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。
緊張している。
でも、嫌な緊張ではなかった。
知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。
私は布団から出て、カーテンを開けた。
薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。
花はもう終わりかけていた。
それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。
クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。
「おはよう」
小さく言う。
それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。
今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。
プレーンヨーグルト。
ブルーベリー。
少しだけ蜂蜜。
丸いテー
土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。 まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。 今日は工房へ行く日。 そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。 緊張している。 でも、嫌な緊張ではなかった。 知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。 私は布団から出て、カーテンを開けた。 薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。 花はもう終わりかけていた。 それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。 クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。「おはよう」 小さく言う。 それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。 今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。 プレーンヨーグルト。 ブルーベリー。 少しだけ蜂蜜。 丸いテーブルに置くと、いつもの朝食なのに、今日だけ少し意味が違って見える。 この器が生まれた場所へ行く前の朝。 そう思うと、普通のヨーグルトまで、少し旅支度をしているようだった。◇◇◇◇ 朝食を食べながら、私は今日の予定を頭の中で確認した。 午前中に洗濯を済ませる。 軽く掃除をする。 昼前の電車に乗る。 工房の最寄り駅までは、乗り換えが一回。 駅から徒歩十分。 販売会は午後からでも間に合うけれど、あまり遅くならないうちに行きたい。 緊張すると、段取りばかり考えてしまう。 でも今日は、段取りで自分を縛るためではなく、自分が安心して出かけるために確認している。 その違いを、少し分かるようになっていた。 ヨーグルトを食べ終え、器を洗う。 布巾で拭いて、食器棚に戻す。 今日は使った器を置いて出かける。 帰ってきた時、この器が棚にある。
工房の販売会の案内を見つけてから、私は何度かスマホの写真を開いた。 最寄り駅。 地図。 開催時間。 作家さんの名前。 写真展示協力として小さく書かれた、朝倉さんの名前。 その全部を、もう何度も確認している。 それでも、見るたびに少し胸が鳴った。 展示とは違う。 書店の二階ではない。 いつもの帰り道でもない。 電車に乗って、知らない駅で降りて、工房まで歩く。 それはほんの小さな外出のはずなのに、私には少し遠く感じられた。 以前の私なら、たぶん行かなかった。 気になると思っても、詳しくないし、一人で行くのは緊張するし、何も買わなかったら申し訳ないし、と理由を並べてやめていたと思う。 でも今は違う。 緊張しても、行ってみたい。 詳しくなくても、見てみたい。 何かを買うかどうかは、行ってから考えればいい。 そう思える自分がいた。◇◇◇◇ 土曜日に行くと決めてから、私は少しずつ準備をした。 といっても、大げさなことではない。 電車の時間を調べる。 駅から工房までの道を確認する。 財布に少し多めに現金を入れる。 エコバッグをひとつ畳んでおく。 それだけ。 でも、その一つ一つが、私を少しずつ工房へ向かわせているようだった。 金曜日の夜、私は丸いテーブルに座って、スマホの地図を見ていた。 水色の花瓶は窓辺にある。 クラゲも、いつもの場所で揺れている。 食器棚には、青みのある深皿。 その器があるから、私は工房へ行ってみたいと思っている。 作った人の場所。 器が生まれる場所。 そこに置かれる朝倉さんの写真。 考えるだけで、少しそわそわした。 私はノートを開いた。『明
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
朝倉さんと並んで、『余白の席』の前に立った。 前よりも、その沈黙に慣れてきた気がする。 無理に話さなくてもいい。 沈黙が、気まずさではなく、同じものを見ている時間になる。 それが少し不思議で、心地よかった。「展示が終わったら、この写真はどうなるんですか」 私が聞くと、朝倉さんは少し考えた。「一部は作家さんの工房に飾っていただく予定です。あとは、僕の手元に戻ります」「そうなんですね」「写真は、展示が終わると少し静かになります」「静かに?」「はい。壁から外して、箱に入れて、次に出るまで待つので」 その言い方が朝倉さんらしくて、私は少し笑った。「写真も待つんですね」「待ちます」「本みたいですね」「そうかもしれません」 朝倉さんも少し笑う。 写真が箱の中で次を待つ。 器が誰かの家で使われる。 本が読まれる時間を待つ。 そう考えると、物にもそれぞれの居場所と時間があるように思えた。「作家さんの工房って、この近くなんですか?」「電車で少し行ったところです」「工房でも展示があるんですか」「時々、小さな販売会をされています。今回の写真も、その時に何枚か置いていただく予定です」「販売会」 その言葉に、少し心が動いた。 器。 工房。 写真。 今回の展示とは違う場所。 けれど、少しだけ続きのように思える。 朝倉さんは、私の反応に気づいたのか、控えめに言った。「もし興味があれば、書店に案内が出ると思います」「行ってみたいです」 思ったより自然に言えた。 朝倉さんは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。「作家さんも喜ぶと思います」「でも、工房って少し緊張します
展示の最終日が近づいていた。 書店の掲示板に貼られたチラシには、いつの間にか小さな紙が重ねられている。『今週末まで』 その文字を見た時、私は少しだけ足を止めた。 終わる。 当たり前のことだった。 展示はずっと続くものではない。 写真も器も、あの白い壁に置かれている時間には限りがある。 それでも、少し寂しかった。 前の写真展も終わった。 そのあとも、私の生活の中には『帰り道の灯り』が残った。 今回の展示もきっと同じだ。 終わっても、器は私の部屋にある。 青みのある深皿は、もう食器棚の白い器の隣が定位置になり始めている。 かぼちゃを入れた。 ヨーグルトを入れた。 少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わるけれど、そこから連れて帰ったものは、私の普通の日の中に残っていく。 そう思っても、やっぱり少しだけ名残惜しい。 私は掲示板の前で、しばらくチラシを見ていた。◇◇◇◇ 昼休みに、その話を佐伯さんにすると、佐伯さんはあっさり言った。「じゃあ、最後にもう一回行けば?」「行ってもいいんでしょうか」「なんで駄目なの」「何回も行きすぎかなって」「展示って、何回行ってもいいでしょ」 言われてみれば、その通りだった。 でも私はまだ、どこかで考えてしまう。 何度も行ったら、朝倉さんに会いたいだけだと思われるのではないか。 そういう気持ちがないわけではないから、余計に足が止まる。 私が黙っていると、佐伯さんはアイスコーヒーを混ぜながら言った。「会いたいだけだったら駄目なの?」 私は少し驚いて顔を上げた。「え」「もちろん、相手に押しかけたり負担をかけたりするのは違うよ。でも、会えたら嬉しい人がいるから、その場所へ行きたいって
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。